@「久須姫ものがたり」

   むかし、景行天皇(けいこうてんのう)の皇女(こうじょ) で久須姫(くすひめ)というたいへんお美しいお方が、伊勢神宮に住んでお

  ったそうな。お姫さまは、たいへん気がやさしくていつも近所の子供達を集めて勉強を教えたり、遊ばせたりしてかわいがっていたそ

  うな。ある年の夏も過ぎた頃じゃ。お姫さまは、大神宮(だいじん ぐう)からの仕事を言いつけられたんじゃ。「神前(しんぜん)へ供え

  る海の幸を今年もとってくるように。」とのことじ ゃった。

  お姫さまは、まえから志摩地方の海で、魚や貝がたくさんとれると聞いていたので、はるばる山を越えある山里へやってきたんじゃと。

  そこはたいへん静かで景色もよく、波が打ち寄せて岩肌にくだける大波、小波にかいたような美しさじゃった。

  お姫さまは、波打ちぎわを日が暮れるまで散歩して時を過ご していたそうじゃ。

  打ち寄せる波の美しさに感心されて、「こんなに美しい波がおきる所は見たことがありません。これからはこの土地を『浪張(なみは

  り)』と呼ぶことにしましょう。」と言っていつま でも、いつまでもながめていたそうじゃ。

  そしてとうとうお姫さまは「こんな美しい所を離れたくあり ません。ここを住まいにします。」と言いだし、村里へ家を建て住まうように

  なったそうじゃ。

   村人から海の幸をとってもらい、伊勢神宮へ年に何回か納め る役目をして、子供や母親の世話をしながら、とうとうこの里で九十

  余歳まで長生きをして一生を終えられたそうじゃ。

   村人は、「子供が病気の時に助けてもろた。村のくらしがよくなった。村のためにつくしてくれた久須姫さまに恩返しを。」と言って

  お墓をつくり、そこへ記念として楠の木を植えてまつったんじゃ。これが楠御前八柱神社(くすごぜんやはし らじんじゃ)の始まりと

  伝えられておるそうじゃ。

 

  (旧浜島町のHPより転載)・資料:『浜島町のむかしばなし』より

 

 A大楠の話

   平清盛(たいらのきよもり)が生きていた時は「平氏(へい し)でない者は人ではない」といって、いばっていた平氏も、だんだんと衰

  (おとろ)えはじめ、勢いをつけた源氏(げんじ)との間で戦いがはじまりました。

   あちこちの戦いでは源氏の勢いの方が強く、とうとう一大決戦を行った屋島の合戦で敗(やぶ)れてから、落ちのびて各地にかくれ

  住みました。

   平氏の侍(さむらい)大将平守国(たいらのもりくに)は海を渡り、山や谷をこえて逃げのびてきたのが、山ふところにかこまれた静

  かな、桧山路の里でした。

  この守国には、美しい姫があり、だいじに育てられておりま した。また姫も親思いの心のやさしい子でした。

  桧山路の里での生活は、この親子にとっては幸福な日々でした。

  しかしこの幸せも長く続きません。

  ついに、かくれ家を、源氏に知られてしまい、追手がきて、 不幸にもとらえられてしまいました。

  源氏の本拠地(ほんきょち)である鎌倉へ送られることにな った朝「捕らえられて鎌倉へ送られるのは自分の運命だとあきらめられ

  るが、かわいい娘を一人残していくのが気がかりで、 たえられない」といい残して連れられていきました。

  姫は、何度もふり返りながら引かれてゆく父の姿を涙にぬれながら見送りました。 それからは、悲しさのあまり毎日泣いてばかりい

  るので村人も心配していろいろとなぐさめたが、姫の思いは連れられていった父親のことばかり、とうとう姫は「私のたいせつなお父

  さんとは、もうこの世では会えない」といって江月庵の前の沼へ身を投げてしまいました。

  村人はみんなこのことをあわれんで、沼のほとりに手厚くほうむり、小さな祠(ほこら)を建(た)て墓の上に楠の木を一本植えました。

  この楠の木は、大きく生長し、のちには、鳥羽の城主、九鬼 嘉隆(くきよしたか)が水軍の日本丸という船をつくるときに伐(き)って

  使われました。その船首のかざりは竜(りゅう)の形をして口から火を吹く仕掛(しかけ)がされておりました。

  木の伐られたあとには楠の木のかわりに、タモの木が植えら れ、今なお茂っています。

  今でも沼地を掘ると、大枝が出てくるといわれ、また小さな祠は、平氏の残党の子孫であるといわれる、中村一族の氏神(うじがみ)

  としてまつられています。

 

  ・資料:『浜島町のむかしばなし』より

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